中村吉右衛門さんの講演を聴講

今年初めての更新になります。
このブログ、実はまだやってるんですよ(笑)。
近況はまた後日別に更新…とも思いましたがTwitter、FBで繋がっている方には不要ですね。
では本題へ。

去る平成28年8月4日(木)早稲田大学大隈記念講堂にて、
長いですがよろしいですか?

早稲田大学芸術文化功労者顕彰記念「中村吉右衛門展」関連演劇講座 中村吉右衛門講演会-古典歌舞伎の芸と心

が開催され、大盛況のなか幸運にも聴講することができました。
長文記事となりましたが、ご興味お時間のある方はお付き合いいただければと存じます。

講演は演博の児玉副館長と対話形式で行われ、今年放送を控えている鬼平犯科帳ファイナルについての話題から始まりました。

【鬼平終了について】
鬼平は命令を下すものの最終的には自分が出て行って捕らえねばならず、七十を超えて立ち回り等々キツくなってきたため吉右衛門さんから「そろそろ…」と申し入れをされて制作側に了承してもらったそうです。
児玉副館長が鬼平シリーズが28年に及ぶことから時代劇の撮影環境の変化について質問されたことを受けて、もちろん色々と変化はしているが撮影スペースが小さくなったと答えられたことに私も寂しさを感じました。
池波正太郎先生のご指名を受けて演じることになったが、シリーズがスタートして一年程で亡くなられてしまったことがとても残念であると仰っていました。
池波作品の言葉、含蓄のある展開に感銘を受けているとも。

【演博にて開催中(8月7日迄)の中村吉右衛門展より】
展示されている「沼津」の書抜について取り上げ、十兵衛の人物像、演じ方について言及。
いわゆる上方風のつっころばしのような型で上演されることが多いが、初代が演じられた十兵衛はもっと立役然としていて平作のことなど諸々気がついている肚で演じる方法で、白鸚さんもこちらだったそうです。
吉右衛門さんも今後は初代の方法で演じられるとのこと。
また、展示室で上映されている二〇一四年度学部卒業式で行われた芸術功労者顕彰授与とスピーチでスタンダールの言葉を引用されたことなどについても。
このスピーチは同展のパンフレットにも掲載されていますが、御自身の顕彰授受と卒業生へのはなむけの言葉をシンプルでありながらしっとりと感銘を受ける素敵なお言葉でした。

【新しくなった歌舞伎座の話題などから】
演者側は舞台の寸法が変わったようなことはないし違和感などはないけれど、座席が広くなったことは舞台から見ていても分かるそうです。
楽屋が広くなったことから出演人数が多い月には播磨屋一門の若手御曹司と一緒になることも。
若い役者さんたちは?との副館長の言葉に皆いろいろ質問してくると答えながら「教え甲斐のある子もいますし…(ゴニョゴニョ)…まあいろいろです」とのこと(笑)。

歌舞伎座建て替え中に亡くなられた先輩俳優の思い出話もありました。

富十郎さんについて
「この方は他の人より細胞が相当速く入れ変わっているのではないかと。ものすごく早口が凄くてまるでジェットコースターのようで(笑)」と愉快に。
紀尾井町のおじさん(二代目松緑)に四の切を教えて頂こうと伺ったが当時既に足を悪くされていたこともあり「富十郎に聞け」と言われていろいろ教わったことがお二人の直接的な関係の始まりのようで、以来何度も共演し、晩年は吉右衛門さんの方からお願いして出て頂くような形であったと。
六代目菊五郎→二代目松緑→富十郎さん→吉右衛門さんへという一つの伝承の流れがあった。
副館長は昭和61年に観劇された「頼朝の死」は富十郎さんの政子、吉右衛門さんの頼家が素晴らしい芝居だったと感慨深げに語っていらっしゃいました。

芝翫さんについて
菊五郎劇団を抜けられてからの付き合いとの前置きをつけながら「随分たくさんご一緒させていただき、ここに居るので怒られるますが(超絶いたずらっこな表情で)女房より女房であったと申しましょうか何と言いましょうか」と笑顔で。
芝翫さんご本人は鏡山のお初が好きだと話されていたという副館長の話に、することの多い役をキビキビとこなすところなどとても似合っていらしたと。

雀右衛門さんについて
思い出に残る役に相模を上げられるとともに舞台の裏側でもとても細やかな方だったとも。
吉野川の大判事を初めて演じられた時は幸四郎さんと中日交代で、定高は歌右衛門さん。
その後もう一度歌右衛門さんと共演した後に雀右衛門さんとご一緒されたそうですが、六世に深く薫陶を受けられた雀右衛門さんはピッタリと六世のイキで非常に演じやすかったそうです。

【菊之助さんについて】
ご結婚当時の報道、会見と同じ内容ではありましたが実に新鮮につい最近のことのように話されていました。
「普通、若手役者がお願いがありますなんて家に来たら教えて欲しい役があるとかなのに何故か娘が一緒にいるんですよ(ニコニコ)どうして仕事の話なのにお前がって(ニコニコニコニコ)」「菊吉と言って敵ではないにしても芸を競い合う家柄とされている同士で結婚するとはなんともまあ」などなど。
籠釣瓶で共演された話では、八ツ橋は情のない割り切った型と六世歌右衛門が演じた情のある女とあるが、以前に彼が演じたのは前者で御自身の次郎左衛門とは合わないと考え、その辺りを説明アドバイスされて歌右衛門型でと。
副館長から福助さんと共演された籠釣瓶の質問を受け、直伝の歌右衛門型であるとの説明も。
菊之助さんに知盛を演じたいと言われた時はとても驚いたと。
考えてみれば知盛は前半は気風の良い綺麗な男であり、平家の公達であるからそこを押し出すことで後の悲惨さも際立つし彼に合う演じ方でないかと思って教えられたそうです。
積極的に立役に挑戦する菊之助さんについては批判等々あるかもしれないが、彼は菊五郎劇団を率いていく立場でもあるし将来にプラスになればと見守っていらっしゃるようなお話でした。
菊之助さんは吉右衛門さんから見ていてとてもとても几帳面な人だそうです。
芸の伝承は先人が洗い上げたものを一度自分のものにするまでが大変だが、彼の几帳面さはそういうことに向いているのではないか、とも。
菊之助さんも播磨屋の芸を伝えていく役目が自分にはあると仰っているようです。
團菊祭の和史くん初お目見得の話も楽しそうに嬉しそうに。

【くまのプーさん】
ミッキーマウスのショーなんかを見ていると舞台で使えるのではないかと色々考えてしまうがプーさんはなんにも考えずに見られる。
また、トムとジェリーは他愛のないことで何度もやり合っている関係が好きで、ずーっと見ていられるそうです。

【初代の写真を見ながら】
熊谷次郎直実
陣門組討は構成、詩的なセリフ回しが素晴らしい。
陣屋の難しいところを問われ、やはり制札から首実検は相模、藤の方、義経と気に掛ける方向が幾つもあるので大変。
「十六年は…」の幕外の芝居はつい先程までの長袴から無情の悟りへの気持ちの持って行き方が難しく、今でも25日間演って満足できるのは1、2日あるかというところ。

石切梶原
熊谷とは打って変わって明るい役であり、命の考え方も違うお芝居。
初代が演じた映像が残っているが、素晴らしいけれど困ったものを遺してくれたものだと苦笑。
九代目團十郎は二股膏薬は嫌いだと言って殆ど演らず、初代が流行らせた演目でもあるが十五代目羽左衛門が対抗してご自分の演り方で演じられた。
本来であれば境内の手水鉢を斬ったところで大庭が戻って来てもう一悶着ある件等に初代が省略するなどの手を加えて適度な上演時間、構成にまとめた。
よく考えればおかしな話で、神社にあるものを壊して知らんぷり、待たせていた筈の家来もそのままに一人で帰っちゃうと笑いながら。

勧進帳
弁慶は大変な役ではあるが、七代目幸四郎、実父白鸚の名を挙げながら御自身は八十代で演じられることを目指してと力強い言葉に場内拍手。
副館長から染五郎さんが弁慶をされた時の義経は実にひさしぶりで感動だったとの言葉。
型について問われ、成駒屋型で演じたが判官御手をのところの手の返しが非常に難しい。
昔、大隈講堂で幸四郎さんの弁慶、早稲田の同窓である東蔵さんの義経で富樫を演じられた折のお話も。

大石由良之助
初めて演じた時は四段目と七段目を同時にだった。
七段目は仇討ちを全くしないように見えてもいけないし、するように見えてもいけないわけでやはり難しく、色気も必要。
スクリーンに映し出された初代の由良之助の奥に写っている平右衛門が白鸚丈であることから、平右衛門の話にもなり、いろんなことが入った役で動きも激しく楽しいが奴言葉はとても難しい。

【復活狂言について】
副館長からの復活狂言の選び方という言葉に「初代の手掛けたものを繋いでいきたい」との返事からこれまでに吉右衛門さんが手掛けられた初代縁の演目に絡めたお話へ移る。

庶民ということもあり入りやすい役であったと仰る「弥作の鎌腹」から難しくて入りにくかった役として伊賀越道中双六の「岡崎」の話へ。
副館長から来年三月に再演が決定したとのお知らせと前回と同じ形での上演かとの質問に、評価はされた(歌舞伎演目として初めて読売演劇大賞を受賞)が「岡崎」に多少唐突感もあり、全体の繋がりを見直して上演したいとのこと。

100年以上上演されていなかった箇所を補っての神霊矢口渡の話から、これまでの復活は国立劇場だったが遂に昨年の秀山祭で歌舞伎座でも復活物を上演(児玉副館長談)することになった競伊勢物語の話へ。
初代が演じられた時の春日村の写真、演博にも展示されている当代の上演時ポスターの写真を見ながら。
よくこれを歌舞伎座でとの問いに、染五郎菊之助の二人が揃って(若い夫婦の役を)演れる状況があって実現したものであると。
紀有常は初めから娘を身代わりにすることを決めており、肚は一つという部分では入り難さ演じ難さはないが、出世した後に育った田舎に戻っていることもあり、台詞回しなど硬軟自在でなくてはならない難しさがある。

【今年の秀山祭について】
一條大蔵卿
「十代の頃に中村屋のおじさんに習いに行き…」とこぼれ話。
書抜を間にして正座で向かい合い「(台詞)はい、言ってごらん」「(台詞)」「いや(台詞)だ」と何度も何度もやり直しているうちに足が痺れ、痺れを通り越して我慢できない程の痛みにつらくなって涙をこぼしてしまったところ「おじさんが慌てて『いいんだよ、繰り返し演っていけば君も上手になるんだから』と慰めてくれて(笑)」と懐かしそうに話す吉右衛門さん。
演っていて楽しくおもしろい役。

吉野川
ここで平成3年歌舞伎座で上演された大判事が吉右衛門さん、定高が歌右衛門さんの吉野川の一部がが上映されました。
メディア化されているもののようでしたが、児玉副館長のお話では御自身も観劇されていた千穐楽の映像だそうで大向うの気合とともに場内の熱気が伝わってくる映像でした。
この吉野川は吉右衛門さんが六世歌右衛門と共演された最後の舞台だったとのこと。
かなり疲れたご様子だった歌右衛門さんに対して「やったー!終わったー」というお気持ちだった吉右衛門さんは当時46歳!
いくら拵えしているとは言えとてもそうは見えない貫禄、迫力、台詞に椅子からずり落ちかけました(笑)。
初役の時は紀尾井町のおじさん(二世松緑)に習ったのでその通り演じたところ定高の六世(歌右衛門)から「おじいさん(初代)はこうやってたよ」「おじいさんはそこはこうだったよ」と結局片っ端から直されましたと照れ笑いする吉右衛門さんでした。

【最後に】
今後の演目、お役については初代が遺したもののうちまだ三分の一しか起こせておらず、まだまだ演りたいもの、伝えなければならないことは沢山あると仰る吉右衛門さんは現在の歌舞伎界、とりわけ古典歌舞伎を後輩へ未来へ伝えていくために欠かせない方であると児玉副館長も仰っていましたし、私もそう思う次第でございます。

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以上、拙い文章でしたが最後までお読み頂きありがとうございました。
少しでも伝わりましたでしょうか。
私自身の記憶メモ代わりでもありますため長々と書きました。
そんなメモならEvernoteにでもなんでも書いときゃいいだろって話ではありますが、他人にも伝わることを意識して記さないと五年後十年後の私にも伝わりませんので、ね。

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スライドや映像を使用されたこともあり暗い客席で取ったメモの汚字誤字脱字に加え、終盤に万年筆のインク切れという大失態を犯してしまったため非常にぼんやりしたレポートになってしまったことお詫びいたします。
また、ご本人の言葉そのものの箇所と拙筆ながら補わせていただいた箇所が混在しますこと、内容がお話された順になっていない箇所がありますこと、役者さんの呼び名敬称等については会話の中で使われたものを優先しつつ判別し易いように改変してある箇所がございますこと、ご理解くださるとともに御容赦いただきますようお願い申し上げます。

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