ようやくなのか、もうなのか…何がなんだか分からないうちに初七日が過ぎてしまった。
密葬による通夜、告別式も終わり、本葬は27日。
勘三郎さんが亡くなったことを事実として受け止める分別はあっても受け入れる感情はまだ湧いてこない。
テレビで流れる映像だけではなく、ふと今までの舞台を思い出したり、演じられていなくても勘三郎さんだったらなどと考えたりすると眼が潤んでくる。
先日Eテレの追悼番組で放送されていた髪結新三は大好きだ。
あの色気はなんだろうね。
ちょっと変わったところで、ぢいさんばあさんの伊織も好きなんだな。
冒頭の妻るん(玉三郎さん)との場面は本当にらぶりー。
鏡獅子は言うまでもないが娘道成寺だってとても素敵。
こういうことは挙げていくとキリはないし、もっとたくさん中村屋さんのお芝居を観ている人がいらっしゃるのでこのくらいにしておこう。
私は染五郎さんを追いかけて歌舞伎を観ているので、どうしても共演や絡めた思い出が多くなってしまう。
前述の髪結新三で勝奴を演じていたのが染五郎さんだ。
勘三郎襲名興行で髪結新三が掛かると分かった時に「勘九郎さん!勝奴を染さんでお願いっ!」と祈り、配役が発表になった時に大喜びしたことを覚えている。
歌舞伎座の八月納涼歌舞伎で野田版鼠小僧が掛かったとき、新橋演舞場では染さん主演で劇団新感線いのうえ歌舞伎阿修羅城の瞳が掛かり「近くの歌舞伎座で鼠小僧とかいう盗賊…」なんて台詞があった。
その月は歌舞伎座の千穐楽が幾日か早く、勘三郎さんが観にいらして「アイツ、あんなカッコイイことやりやがって」みたいなことを言ってくださったなんて話もあったっけ。(この逸話、どこで見聞きしたのかしら?染さんが言ってたのかな。曖昧でごめんなさい。)
コクーン歌舞伎の掛かる渋谷に三谷さんのPARCO歌舞伎で乗り込んで、勘太郎くんがPARCOに出ちゃうなんてのもあった。
勘三郎さん、渋谷で歌舞伎が二つも掛かるなんて凄いことなんだよっ!てテレビか何かで言ってらした時は嬉しかったなぁ。
改築を終えた歌舞伎座が来年四月に開場すればそれなりに賑わうのだろうが、勘三郎さんが亡くなってしまったことで歌舞伎座は賑わっても歌舞伎そのものの取り上げられ方はここ何年かのそれとは趣の違ったものになるのだろう。
もちろん世間の賑わいがどんな趣であろと関係なく歌舞伎見物を続ける人はたくさんいるし、他の役者さんだって多くのご贔屓を抱えていらっしゃる。
中には世間的に賑わう必要がないと思っている人だっているかもしれない。
歌舞伎座自体も観光地として一定の地位を保つであろうから歌舞伎座で歌舞伎を観る人は絶えないだろう。
私だって見続ける。
歌舞伎はお芝居や踊りを見せるけれど、役者見せでもある。
十八代目中村勘三郎その人を、十八代目中村勘三郎が見せてくれるものを観に行く人が沢山いた。
勘三郎さんはハレの人…いや、ハレを振り撒く人。
歌舞伎を観る人観ない人、歌舞伎に出る人出ない人、とにかく色んな人を巻き込む役者さんであったことは間違いない。
言葉は悪いが、釣った相手に土産を持たせて帰す最高の釣り師が勘三郎さんなのだ。
もっと釣られたかったね、勘三郎さんに。
いつの日か、何年後何十年後か分からないけれど、その時代を疾走して風穴を開ける役者が現れるかもしれない…いや、現れてもらおうじゃないの。
そしてその人は今の自分たちが受け入れることができる役者や演技である保証はないし、むしろ受け入れることができない可能性のほうが高い。
でも、それで良い。
その時代が欲している役者なんだよ、その人は。
自分が時代遅れになるのはそれだけ長く見続けたことだと自己満足に変えながら長生きして、次の傾奇者とそれを喜ぶ若い観客を見ながら「私たちが若かった頃はもっと凄い役者がいてさぁ。ねぇ?十八代目の勘三郎と比べりゃあ、あのコなんてまだまだよね?」と歌舞伎座の客席で懐古厨になるのだ。
伝統芸能というのはその繰り返し…と自分に言い聞かせるしかないが、そうするにはあまりにも早すぎるし、大きすぎる。
勘三郎さん、還ってきてよ。
読み返してみると現在形と過去形、勘三郎と勘九郎は入り混じり、話も行ったり来たりですが率直な今の気持ちとしてそのまま投稿します。
何か書いておかなきゃと思って書き始めてみたものの、結局よく分からない長文駄文になってしまいました。
ごめんなさい。